差別をネタに笑いを取りにいくということ

こんにちは、たこかいなです。扱う内容の振れ幅のデカいブログへようこそ。
いちおう大喜利というテーマは保ってはいるのですが。

今回はつい最近ニュースになった、お笑いコンビ「Aマッソ」が大坂なおみの肌の色をネタにしたコントで批判を浴びた件。
ネット大喜利を楽しむ者のはしくれとして、前から気になっていたことと今回のニュースが非常にリンクしたので、これを機に少し真面目に書いてみようかと思った次第です。

このエントリーは、大喜利であったりネタツイであったり、プロではなくても「笑いを世に提供したい」という気持ちで日々創作に励んでる界隈の人を主な読者に想定しています。
そういう我々が、今回のニュースを受けてできることってないだろうか。そんなお話です。

多分ご存知でしょうがいちおう今回のニュースの顛末

お笑いに興味のある方なら事の顛末はご存知と思うのですが、いちおうヤフーに掲載されたBuzz Feedの記事を貼っときます。もし記事が消えて今後リンク切れしたらごめんなさい。

headlines.yahoo.co.jp

個人的にはいろいろと釈然としない点もあります。

記者が大坂なおみサイドに「謝罪があったか確認」って何なん?とか。

なんで謝罪文に相手の名前がないの?とか。発言そのものは伏せてもいいと思うんですが、名前も?

何よりここぞとばかりに「センスがない」とか叩きやすい人を叩きたいだけの連中が現れたり、逆に「何でも規制すればいいってもんじゃない」みたいなピントのずれた反論が出てきたりで、相変わらずすげーなツイッターヤフコメって感じです。

今回彼らがやらかしてしまったことはやっぱり擁護のしようがないと個人的に思いますが、ご本人たちが反省して今後に活かせばよいことなので、これ以上ここであーだこうだ言うつもりはありません。


大喜利やネタツイなど、お笑い界と近い立ち位置にいる我々にとっても、これは決して対岸の火事ではないという不安を感じた方もおられたのではないかと思います。

いやホント、どこから炎上が始まるか予想もつかない今日この頃。
タピオカ飲み残しを風刺したアートが、描かれた顔が女性に見えるというだけの理由で女性差別ということになり、作者の意図しない方向に燃え広がっていったのは記憶に新しいところです。

こんなことが繰り返されたらネタを世に出すなんてできない!
「不謹慎狩り」の嵐に屈して、我々は黙るしかないのでしょうか。

そんなことはありません。少しの準備と心構えがあれば、委縮することなく表現活動は続けられる。そう僕は思います。

具体的には?ちょっとその前に、まず「なぜ我々は差別を笑いにしたがるのか」というメカニズムについて自分の考えを述べさせてください。

差別をネタにしようと思う心理について

お笑いコンビ「Aマッソ」について、失礼ながら僕はあまり存じ上げなかったのですが、派生して出てきた情報を見る限り、かなり「尖った笑い」を志向してきたのだなというのが見て取れました。
尖った=攻めた、とも言いますが、要は賛否両論巻き起こるようなきわどいネタで笑いを生み出そうとしている。

手法そのものはわりとお笑いの常套手段で、とっつきやすいぶんライバルも多い。そうなると今度は「どこまで攻めたか」みたいな勇気のレベルが賞賛に繋がります。できる限り崖っぷちギリギリまで行って生還する、チキンレースと似た勝負です。
今回の騒動は、そのチキンレースで本当に崖から落ちてしまったわけですが。

崖を攻めたら崖から落ちるかもしれないなんてことは、死と隣り合わせのF1レースみたいなもんで、素人ができないことを見せてなんぼのプロの宿命ともいえます。その点では大変だなーと同情したりもするんですが、同時にモヤモヤと湧き上がる疑問が一つ。

なんでそっちの崖を攻めちゃったの?

言うまでもありません。そっちを攻めるとみんなが笑うからです。


人種・性別・容姿・格差…差別が笑いに繋がるということは、おそらく普通に暮らしていれば気づくことだと思います。
ご近所や学校・職場の噂話に始まり、ワイドショーや週刊誌のゴシップ記事、そしてお笑い。いろんな場面で人は「見下せる対象」を見つけて笑い、留飲を下げます。これは古今東西どこでも起こる。人類のDNAに刷り込まれてるんじゃないかという気さえします。

その笑いで万人が幸せになれれば言うことなしなのですが、差別には必ず「差別される側」がいて、その人たちは笑いの対象にされることでかなりの確率で傷つきます。
もちろん中には笑うどころかもっとシビアな差別もありました。奴隷として扱われた黒人や、人権を抑圧されてきた女性は、物理的な虐待など壮絶な歴史を経て今があります。時にその歴史の積み重ねが憎悪となり、行きすぎた批判がかえって状況をややこしくすることも多々ありますが、それはまた別の話。

ともあれ、彼らが「大坂なおみの肌の色」をネタにしようと思いついたのは、これまで我々日本人(だけじゃないけど)が、肌の色の違いを笑うネタとしてきたからに他なりません。
時代の流れを見誤ったというか、無知だったというか、その点でAマッソのお二人に非があったことは確かです。だとしても、過去にはそれを当たり前のように笑って疑うこともなかった社会が連綿と続いてきていた。そのことは述べておかないと彼らにとってもフェアじゃないなと思います。
いわば我々の社会に「原罪」があり、それが彼らを炎上に導いてしまったわけです。

誰が差別していいというサインを出すのか

さて、我々のDNAに刷り込まれてる(かもしれない)差別意識。だとして、じゃあ差別の対象、「見下す相手」ってどうやって決めてるの?という問題があります。

多分ですが、生まれつき差別相手が決まってる人っていないと思うんですよ。必ず後天的に、生まれ育ち、社会にもまれる中で、あの人は馬鹿にしていい、嘲笑しても構わない…っていう感覚を養ってるはずなんです。


ちょっとずれるけど、学校のいじめが例としてわかりやすい。

些細なきっかけでいじめのターゲットが決まると、クラス全体に「あいつはいじめていい」という暗黙の了解が広がる。そうすると最初はターゲットのことを何とも思ってなかった連中もいじめに加担したり、あるいは積極的に関わらないまでも遠巻きに冷笑するようになる。
しかも何かのきっかけでターゲットが変わると、今度は一斉に攻撃がその新たなターゲットに向かったりする。
同調圧力なんかは生まれ持ってのものかもしれませんが、こと誰をいじめるかのチョイスはDNAでは説明がつきません。

じゃあどうやって決まってるのか。

得てしてそういうときって、最初に流れを作る人物がクラスにいたりします。それとなくクラスメイトから、あるいは先生からも人望がある感じの立ち位置で、そういう子が「なんか○○ちゃん好きじゃないな」とか一言つぶやいた瞬間、ターゲットがロックオン。
…ドラマの見すぎか?いやいや、人物像がステレオタイプなのはさておき、「いたなーそういう奴」ってうなずいてくれる人も多いのではないでしょうか。

いじめ現場には、いじめ現場の流れを決めるインフルエンサーがいます。


翻って、お笑いと差別のお話。
誰を笑いのネタにするか、決めてるインフルエンサーっているんでしょうか。

まずはなんといっても公共メディアの影響がデカいと僕は思ってます。
思い出してみてください。クラスで笑いを取り人気者になる近道は、テレビに出てた芸人やYoutuberの模倣をすることでした。笑いを取ってる本人はもちろん、それを見て笑ってる側も、「なるほどこれが面白いということか」と学んでいくわけです。

そして、それに匹敵するのがツイッターとかのSNS。そこで面白いとされた事柄はあっという間に拡散され、共通認識として「学習」されていきます。リツイートパワー恐るべし。
Youtubeも含めたSNSと公共メディアとの違いは、素人がオモシロを発信でき、多くの人に影響を与えられること。一般人が自力でインフルエンサーになりうるスターダムシステムと言っても過言ではありません。

僕が参加してる大喜利界隈はSNSに比べれば遥かに影響力は小さいですが、それでもある種の「尖った笑い」を生産する工場として、結果的にSNSだったり素人参加番組だったりにせっせとネタを出荷しています。まれにプロの芸人や表現者も輩出したりしますね。

そういう「オモシロ界への影響力」を持った人たちが、ある属性の人に対する差別をネタに笑いを取りに行ったら、どうでしょう。
それを見て笑った人も、次の「笑わせる側」を狙う人も、「なるほど、この属性の人を笑うのはオモシロなのか」と学習することになりませんか。
元ネタを言った側も、ウケると思ったから差別ネタを扱い、結果的にウケたのでまた使うでしょう。
結果としてオモシロ界における差別ネタの有効性が上書きされ、定着していく。

――なるほど、こうして差別は再生産されていくんだな。僕はそう感じています。

大袈裟に感じますか?そりゃ有名人とくらべれば影響力は微々たるものかもしれません。けど、程度の差こそあれ、我々はそうした連鎖の片棒を担ぎうる立ち位置にいるということに、もっと自覚的でいて良いのではないかと思っています。

「笑いのインフルエンサー」だからこそ考えてほしいこと

ここで強調したいのですが、決して僕は「黙ってるのが吉」と言いたいわけではありません。オモシロを発信する人にはどんどん発信してほしい。

ただその一方で、「面白いと思ったから言っただけで、内容にツッコまれても困る」というスタンスも、それはそれで無責任じゃないの?と思うわけです。
「ネタツイにマジレスはカッコ悪い」というレスポンスはよく見かけますが(実際意図を全く汲み取れてないクソリプは散見しますが)、それはネタツイ王国だけで通用する論理であって、陸続きのマジレス共和国にまで届く大声で叫んでおいて、その論理を振りかざす方が無理があると思うのです。


じゃあどうすればいいのか。
僕は発信者の心構えひとつだと思っています。

もし自分のネタが差別だと批判されたときは、「そんなつもりじゃなかった」と逃げるのではなく、何がそう捉えられたのか考え、自分の中でちゃんと答えを出すこと。そういう心構えです。

無条件に謝るのも違うと思っています。よくある「ご迷惑をおかけしました」っていう誰に謝ってるのかわからないプレスリリースは、それこそプロなら仕事を失わないために必要なのかもしれませんが、我々はそういう立場ではないですよね。
あくまで、思いが至らなかった部分があったかどうか自問して、非があるなと思ったら謝るべきことについてだけ謝ればよいと思います。単なる煽りや便乗など、答える必要もないのにまで反応する必要はない。

大事なのは、今後も同タイプのネタを発信し続けるなら、「定番だから」「思いついちゃったから」みたいな軽いノリではなく、「過去に批判があったけど、自分はこういう理由があって再びネタにします」と信念を心に秘めて発信することではないでしょうか。
同じような批判がまた来るかもしれません。そのとき正当な批判に対して真正面から答える準備ができていれば、むしろそれが拡散されたとき差別に皆が気づき、見直す機会になるかもしれない。
ネガティブに働く可能性のある影響力を持っているわけですから、ポジティブな未来につなげる力を発揮することだって可能なはずなのです。


Aマッソから延焼する形で、金属バットのネタも炎上してます。「彼らは差別という現象そのものを笑いにしている、だからセーフ」という擁護も見かけました。実際そういう意図なんだろうなというのはコントの流れを記事で読んだだけでも伝わってきます。

だからこそ、彼らは批判から逃げてほしくない。
個人的な希望としては「ね?差別って滑稽でしょ?あなたたちは普段こういうことしてないって言えますか?」と問題提起してくれれば、無粋ではあるけど最高にカッコイイ。
そこまでは行かずとも、今回は沈黙を保って皆の解釈に任せ、次のアクションで信念を示すなら、僕は応援したいです。
逆に「そんなつもりじゃなかった」って釈明するようだったら本当にただの最低野郎です。さすがにそんなことないと思うけど。

彼ら芸人ほどじゃないにしても、笑いのネタを提供する我々、特に発信力の強い人ほど、こうした面倒くさい問題から目を背けてやりたいことだけやっていると、いつしか差別に加担している側になってしまいかねない。本気でそう懸念してます。
だから、これを機にみんな一度立ち止まって、「なぜ自分は敢えてそのネタを使うのか?」「本当に使う必要があるのか?」と思いを巡らせてみてはどうでしょう。

それが僕からの提案です。

事前の棚おろしのススメ

こうなると悩んじゃうであろうと思うのが、ネタ提供にスピードが求められる場面で戦う人たち。

僕がよく参加してる大喜利プラスも、わずか3分でボケを完成させないといけない。わずかな時間で常時5つも6つもネタを出せる人ってそうそういないでしょう。最初に思いついたネタをどうにかボケに昇華させるので精いっぱいだったりします。
大喜利はもっと極限状態で、場の空気も読みながら、数秒で思いついたネタを数多く打っていく。戦略にもよりますが、正直、精査してるヒマもないこともままあります。

そんな中でポリコレ的な判断までやってられるか!という嘆きは大いに理解できます。実際、無理だと思います。

でも「ただの遊び場なんだし、多少の差別くらい大目に見てくれよ」と、自分の発言責任を放棄して、受け手に寛容さを押し付けるのは違うよね、ということはこれまで主張してきたとおりです。

そこで提案その2。

戦いの場に赴く前の段階で、あらかじめ自分の中でこれはOK、これはNGという線引きを整理しておくことです。「頭の中の棚おろし」ですね。
ちょっと意地悪な物言いになりますが、つい差別をネタにしてしまう、あるいはつい差別をネタにしてしまいそうで怖い人は、「不謹慎狩り」という実態のつかめない外敵を憎む前に、「己の準備不足」をこそ真摯に捉えてほしいのです。


NGに線引きしたからといって、NGネタを思いつかないわけじゃありません。

たとえば僕の中では「ブス」はNG側に分類しているのですが、大喜利プラスなんかやってると「あーこのお題はブスネタならウケるだろうなー」という場面はあり、票欲しさに試してみたい誘惑に駆られることもあります。
そこをグッとこらえて呑み込み、別のネタ探しに頭を切り替えるのです。
実をいうと確か2回くらい、実際その誘惑に負けてブスネタ投稿したことあります。すべりました(ぉぃ)。ただ、ウケるウケない以前にそのボケを公表してしまった自分にいたたまれない気持ちになりました。だから、今後はもうやらないと心に決めています。

僕の個人的な話はさておき。

出していいネタ、駄目なネタが自分の中で定まっていれば、 思いついたネタを出すべきかどうかの判断に時間はかかりません。

面白いもので、NGと自分が判断したものに固執せず、すぐ他のことを考えるよう実践していると、NGネタを思いつく頻度って自然と減ってきます。代わりに思いついたものがウケるとは限らないのがつらいところですが、思考回路を鍛えるつもりで是非やってみてください。
日頃からオモシロのために脳を使ってる人なら、差別とか不謹慎とかのベタなネタに頼らずやっていけないはずがありません。


ちなみに、線をどこに引くかについては人それぞれの感性や信条に基づくもので、一概に指針は示せないと思います。

たとえば僕の場合、あからさまに差別対象となっている人種・性別等への揶揄は当然NGなんですが、批判を受け止めて答える覚悟をもって使っていくのは一つの考え方でしょう。僕は好きじゃないですが、その姿勢自体を否定しません。

差別かどうか微妙なジャンルで言えば、僕の中では「デブ」「(ほどほどの)エロ」はOK、「ハゲ」は使い方次第で判断、「ブス」「痴漢」はNGです。
「え?ブス問題ないんじゃない?」と感じる人もいるでしょう。ご本人の中でOKに明確に分類されているなら良いのではないでしょうか。
ただ、そういうあなたも「ブス」と言われて傷つく人がいるという知識は持ったうえでそのネタを投稿しているはずです。もし万が一そのネタで傷ついたという人が現れたら、そのことを真摯に受け止める心構えはしておいてほしい。僕も僕のハゲネタで傷ついたという人が現れたらちゃんと考えます。

そういう秘めた矜持のあるかどうかが、ただの荒らしや嫌がらせと、みずから発信・表現する者との違いなのではないでしょうか。


このようにして皆が脳内仕分けを行い、出すべきでないと思ったネタは呑み込んで出さない。
それを各自が実践し、「ついつい使っちゃったダメなネタ」が表舞台から消えることで、誰もがダメだよねって思うようなネタは自然とオモシロ界から淘汰されていきます。

そうなれば、「そこまで深く考えてない勢」が真似してウケを取ろうとすることもなくなっていくでしょう。むしろ寒いヤツだって空気になればしめたものです。

これからもずっと定期的に今回みたいな暗いニュースが流れ「何だかなー」って気持ちになり続けつつ、私欲のためだけに同じネタを使うのか。
それとも「もっとこんな笑いってあるよね?」って手っ取り早い笑いに頼らないオモシロを提供し、土壌を変えていくことを志向するのか。
これから笑いの界隈のたどる道のりは、案外足を踏み入れた我々一人ひとりにかかっているんだなと。わりと本気で思ってます。

まとめ

  • みんなが笑うから、差別をネタにする笑いを取りにいく人がいる
  • その差別をネタする笑いが世に出ることで、差別を笑う風潮が再生産される
  • 自分に影響力があることを認識し、「なぜそのネタを使うのか」を自問してみてほしい
  • OKラインの線引きを前もってしておく準備と、批判を浴びたら真摯に考える心構えをしておくことで、委縮せずに表現活動は続けられる

正直、この内容はずっと前から思ってました。ただ、皆が笑っているだけのタイミングで何の脈絡もなく出せば、無粋なことこの上ない話題です。
黙ってる間にもチラホラ見る差別っぽいボケを見過ごすのもどうかと葛藤しつつも、「書くとしたら界隈に幻滅して離れるときだなー」くらいに思ってました。

そんな折、幸か不幸か今回こうした話題が出てきて、不謹慎狩りに対する懸念なども見かけました。ちょうどいいタイミングかなと思い、長文のブログを書かせていただきました。
賛否両論あるとは思いますが、頭の片隅にでも置いていただけますと幸いです。
ここまでお読みいただいた方、お付き合いいただき本当にありがとうございます。

本来は僕もアホほなこと言ってるほうが好きです。これ書いている間にいくつケータイ大喜利にボケを投稿できたか…
次はアホな世界で皆さんとお会いしましょう。はい。

【おまけ】ヨーロッパの差別事情(狭い自分の観測範囲で)

 ツイッターで繋がってる方は一部ご存知かもしれませんが、わたし現在、ヨーロッパ某国の片田舎に住んでいます。

今でこそアジア・アフリカ系含め多様な人種を見かけるのですが、地元の中華料理店の店主に聞いたところ「20年前はアジア人は自分だけ。黒人さえいなかった」というような町です。

来てから1年ほど経過しましたが、普段暮らしてる分には差別を感じる場面はありません。近所の人とは普通に挨拶かわしますし、お店とか行っても基本的にみんな笑顔で親切です。
来てすぐのときは、こっちが言葉を理解できずに聞き返したとき、一瞬「めんどくせ」って顔されることはたまにあったかな。
あと基本みんなおしゃべり好きで、お客と雑談しながらレジ打ちするのなんかも当たり前なんですが、僕をはじめアジア人にはあまり話しかけてきません。これは差別というより、むしろ民族性をよく知ってるってことなのかも。

明確に差別を感じたのは1回だけ。広場で立ち止まってポケモン捕まえてたら、自転車で通り掛かった少年2人組から唾を吐きかけられました。当たりませんでしたけど。ギョッとして見返したら「お前やめろよー」「お前がやったんだろー」みたいにふざけ合って去っていきました。
実害があったわけではありません。ただ、それが年端もいかない少年からだったことがある意味ショックで。「あー、彼らはどこかの大人から『アジア人のおっさんには唾を吐きかけていい』って学んだんだなー」と、差別の温床の根深さに心が寒くなったのを覚えています。

そんなわけで、めっちゃポリコレ先進国な国であっても、誰もが心の底から意識高いわけではありません。むしろそういう闇が根強いからこそ、大声でポリコレを叫びつづけていないと、つい差別がポロっとほころび出てしまうという側面もあるのでしょう。


職場はめっちゃ多国籍軍です。町以上にあらゆる人種がいますし、タトゥー髪染め当たり前、ムスリムヴィーガンもいます。ついこないだトランスジェンダーをカミングアウトした人もいたな。
そんな環境でいちいち差別や偏見を挟んで物事考えてたら仕事になりません。意識高くなろうと考えるまでもなく、自然と多様性に寛容になるのを実感します。まあ寛容も何も、自分のほうこそマイノリティなわけですけど。

観測範囲ではセクハラ的なものもないですね。社内で付き合ってるカポーは堂々と手つないで帰ったりするし。全体的に表裏のない印象です。

自分で失敗したなと思ったのは自虐ネタ。「俺の汗が醤油臭かったらゴメンな」的なことを言ったら「自分でそれ言っちゃう…?」みたいに若干引かれたことがありまして。
自分自身に向けたものであっても、人種差別に繋がりそうな言説は受け付けないってことなのでしょう。ちょっとやりづれえよ。でもそういうもんなんでしょう。学びました、もうやらない。

 

おしまい。